先週、ある方に西国分寺のクルミドコーヒーに連れて行っていただいた。
その方を仮にYさんとするが、彼女は何度か来ていて、私は初めて。
西国分寺で降りたのも初めてだった。
どのカフェに行こうか相談中、彼女が候補に挙げてくれた。
木を多用したぬくもりのある設えで
テーブルに用意されたくるみを割って楽しむことができるという。
私も一応いくつか候補を挙げたが、そのカフェ以外に行くことは考えられなかった。
というのは、この2年ほどクルミは毎日食べていて、
さらに先月、御徒町の吉池で「姫くるみ」なるものを買ったはいいが
うまく殻を開けられなくて、半分以上残ったままだった。
説明書きによると、「炒ればカラが開く」ということだったが、実際は一部しか開かず、
残りはペンチで圧をかけて、そうして開いたスキマにドライバーを差し込んで捻ることになり
それでも半分ほど残ってしまった。
どうして開けたものか思案しているところに彼女から連絡をいただいたので、「くるみ割り人形」のあるこちらのお店に行く以外考えられなくなってしまった。
「くるみ割り人形」がどのようなものかも
私は知らなかったので
どのような作りになっているのか見るだけでも意味はあると思った。
平日の昼間だったのに店内はいっぱいで
30分くらい外で待った。
選んだ席の椅子は子ども用のようなサイズで
弟の幼稚園に行ったときのことを思い出した。
もう一軒、姉妹店の
国分寺の胡桃堂喫茶店にも行った。
国分寺の駅周辺はすっかり変わってしまい
往時の面影はほとんどなかった。
くるみ餅とほうじ茶のセットを頼む。
こちらでも今年のくるみをもらう。
くるみ割りは可愛かったけれど
値段は少し高めの上、構造的に姫くるみを割るのは難しそうだった。
結局ペンチとドライバーを使っているが
一度は開かなくても
何日も経つと思いがけなく開いたりして
その日許された量をわずかずつ食べている。
くるみを割る音は侘びていて
乾いているけれどどこか希望に満ちていて
静けさに快く響く。
この反応はどこか自分の深いところに組み込まれていて
大昔から心地よいものとして認識されていたに違いない。
酸化しない油の味わいは豊穣として舌に受け止められ
金色の光が差し込むようだ。
それは冬の弱い陽射しのように控えめに明日を照らす。
その滋味を繰り返し
人は貪ってきたに相違ない。
先日別の友人に
「これからどんな絵を描きたいの」と聞かれたが
描くにあたってほとんど考えていたことはない。
でも
私の絵もくるみのようなものであるといい。
前途を照らすかおぼつかないような明かりでも
なんとか明日につながる頼りになるといい。