カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

いのちと食(その2)

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さて、ここからは描写がいささかバイオレンスになります。
心臓の弱い方、とても心の優しい方(?)、お食事中の方は、
読むのをお控えください。
また、これからも肉を食べつづけたい方は、避けたほうがいいかもしれません。

で、私は満を持して、「と畜動画」を見ることにしました。

私は、肉が大好きです。
一年に一度ステーキを食べに銀座のスエヒロに行きますが、
それを楽しみにしている人間です。
牛丼は食べませんが、半年に一度はスキヤキも食べます。
ハンバーガーやケンタッキーフライドチキンは2、3ヶ月に1度は食べます。
週に一度、50グラムぐらいは必ず肉を口にしています。
魚はほぼ毎日食べています。
他に、カバンや靴は革でないとイヤだし、
毛皮も少しながら持っています。

そこにはいのちがあります。
想像してみればわかることですが、それが自分の手元に来るまでは、
そうした行程があるということです。

でも、私は、それが見たくありませんでした。
楽しいものでないことは容易に想像できますし、そうすれば自分が苦しむこともわかっていたからです。
でも、いずれ見るべきだとは思っていました。

見て言えることですが、
だからといって、私はそれを人に勧める気はありません。
強要するものでもないと思っています。

ただ、見たい、あるいは見るべきだと強く感じた人が、見ればいいのだと思っています。

今回決心がついたのは、
「いのちと食のつながりを全体的に受け入れたいと、自分が願ったから」
という気がします。

さて、見てみて。

自分は、不謹慎かもしれませんが、
ラード入りの菓子を口にしながらその場面を見ていました。

なにか逃げ道がなければ、受け入れられないと思ったからかもしれません。

しかし自分は、淡々とそのシーンを見ていました。

耐え難いシーンがあったのも事実です。
具体的にどこかと言えば、生き物がいのちを失うまでの部分です。

しかしいったんこと切れてしまえば、ただちにそれを食物として認識している
アッサリとした自分がいました。

血を流していようが、私はそれを生物の死体としては認識できず、
ただ食べるものとして認識していました。
皮を剥がれ、解体されてしまえば原形を留めていても
むしろ「おいしそう」という感覚すら持ちました。

それは端から見れば、残酷、冷徹、非情、現金、切り替えの早い、など
いろいろに形容できるのかもしれません。

ただ自分の中に悪意はなく、ゆるぎなくそれを「食べ物」として捉えていました。
その感覚に少なからず驚かされましたが。
その感覚が、自分の中のどの部分からやってくるのか、自分でもわかりませんでした。
感覚や認識を作るには、何らかの経験、気憶が必要だと思ったのです。
しかしそれらしい記憶は自分の中になにもなかったのです。

特にそれは豚の場合にはっきりしていました。
牛に関し違和感や嫌悪感があったのに対して、
豚にはあまりなく、それはあくまでも食べ物でした。

牛のほうが体が大きく、感情の表現もはっきりしていたからかもしれません。
魚は自分でも捌きますし、魚についてはもっと「食べる物」としての認識が強いですが、
やはり生きたエビやカニに手を下すことは抵抗があります。
また、ダイビングなどでいったん海の生物とじかにふれあってしまえば
それは食べ物ではなく、かわいい同志になってしまいます。

魚を生き〆して捌いたことはありませんでしたが、
先日、三浦の小さな魚屋にでかけ、カサゴを頼んだら
目の前で生き〆をしてくれました。(写真はそのカサゴちゃんです)
しかし目の前のいけすで泳いでいたかわいいカサゴ
一撃で「肴」になってしまった、包丁を入れたのはお店のおじさんですが
それを頼んだのは紛れもない自分だったということが、
ずっと心に残りました。

私が見たのは、菜食推進が目的のサイトに、リンクされている動画でした。
その動画は殆どアメリカのもので、わざと特に残酷なものを選んで載せている感が
少なからずありました。
他のサイトから飛んだ動画には日本のものもあり、まったく残酷でないとはいえませんが
ずいぶん印象は違いました。

2つの国のものしか見ることができず、数もそれほど多くはなかったので
そこから断定するのは正しくないかもしれませんが、
残酷なのとそうでないのは、そこにある「『いのち』の認識の仕方の差」による
ような気がしました。

もし屠殺がどうしても必要で、その対象が「いのち」を持った存在なら
苦痛を少しでも減らそうとする工夫は不可欠だと思います。

限られた数の動画を見る限り、アメリカのは
いのちに対する認識が薄いと感じざるを得ませんでした。

日本人の場合でも、スーパーなどでパック詰めの食材を買う現状では
どうしても「いのち」の感覚は希薄になるでしょうが、
食事の前に「いただきます」と言うことや
「もったいない」あるいは「一粒のお米に7人の神様が住んでいる」という意識があり、
まだ「いのち」をいただいているという感覚が多少なりとも残っているように思います。

また、もう一つ驚いたのは、
その、もう二度と見たくないようなシーンを見たにも関わらず、
自分はまったく肉を食べるのをやめようと思わなかったことです。
それどころかむしろ、肉に対する欲がどれだけ深いのか、あらためて思い知ることになりました。
見る前は、きっともう肉を食べたくなくなるのではと思っていましたが、
少なくとも直後は、「肉を食べるのは当然」という意識がありました。

その菜食推進サイトは、屠畜の残酷さを見せて
菜食に向かわせようという意図もあったと思いますが、
「Aが悪いことだから、やめてBということをしましょう。」と勧めてむりやりBを敢行したとしても、逆説的にAに戻っていくというケースが多いように思われます。

「他の選択肢も肯定されているけれど、やはりなによりもBが一番好ましいから」
という理由でなければ、本当にBが選択されることにならないと思います。
たとえ「肉もどき」を食べるようになったとしても、
それは肉を食べたいという気持ちのあらわれで、問題がなくなったわけではありません。

その他、肉食を肯定する人々へのQ&A式のメッセージなどには、詭弁ではないかと思える部分も多々ありました。
一概に肉食を否定できません。確かに肉を食べると、体が温まります。
文化的な問題もありますし、食の喜びは否定できません。

「では植物のいのちをうばってよいのか」という意見もありましたし、
「人はなんらかのいのちを奪って生きなければならない、罪深い存在である」という
原罪意識につながるような考えもありましたが、
食べると言うことは、良い悪いではないと思います。
すべての人に罪があるなら、だれにも罪はないと思います。

ウサギが草を食べ、大好物のヒマワリのタネを食べ、嬉々としてひねり高飛びをし
駆け回る様を見ていると、まさにそれは「いいこと」に思えます。
だれがこの喜びを否定できるでしょうか。
人についても同じです。

ただ、徐々に、
「いのちをうばわれることをいやがっている存在を無視して、それを食べてもいいのか」
という意識に変わってきました。
自分と、その他の生物と、いのちの重みにどれだけの差があるでしょうか。

また、私は長いこと貧血だったこともあり、肉を食べなければ健康になれないと
言われてきましたが、はたして本当だろうかと思うようにもなりました。
米は玄米であればそれだけで完全食品であり、栄養に不足はありません。
また、カゼをひいている時は、なるべく肉や牛乳、タマゴを控えた方が
早く治ります。
毎回肉や魚を食べなければならないということもないようです。
地産地消で地元の野菜を食べ、なるべく米食にすれば食料自給率も上がるし、
昔のように、食事にハレとケを与えたいと思うようにもなりました。

矛盾に満ち、傲慢であるかもしれませんが、それでも
完全にアレルギーなどにならない限り、肉食はやめられないと思います。

「罪ではない」と書いたばかりですが、
ウサギを飼うのは、どこかに罪ほろぼしの意識があるからかもしれません。
食べるのが目的でなく、その徒労から自由であることを喜び、
ただ、生かすことを目的とし、
いのちがあることを、ただ楽しむために、私はそれを飼っているのです。

とりあえず、明日、「豚がいた教室」を見てきます。