カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

緊急時役に立つものは・・脂肪(笑)

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すみません、だらだら読みにくく書いて。
地震3部作は、ひとまずこれで終わりです。


さて、北品川の分岐で、私はまた間違えてしまった。

標識が「左→五反田 右→川崎」となっていたので
右に行ってしまったのだ。

左はあきらかに旧東海道だったのだが、
標識に負けてしまった。

そしておまわりさんも、標識と同様に案内していた。

ところが、着いたのは五反田駅だった。

まあ、最初は五反田からバスに乗るつもりではあったが、
バスも不可能だと感じ始めたので、そのまま15号線を道なりに
川崎まで出ようと心づもりをしたところだった。

しかし分岐から真西に進み、とんだロスであった。

いまさら15号線にもどる気力はない。

当初の予定通り、おそろしく並ぶ川崎行きのバス待ち行列につくか・・
でも、道は大渋滞で、動いている様子がない。

東急の係員が出てきて、川崎行きのバスが次に来るのは1時間半後、
川崎までは3時間かそれ以上かかると言い、断念する。
また折りしも都営浅草線西馬込までは運行を始めたとのことで、
そこまで行き、あとは1号線を南下することに決める。

都営線も混んでいたが、スシ詰めではなかった。

たとえ4駅だけでも電車に乗れたのは、大きかった。

沿道のコンビニや、まだ開けているレストランがオアシスに見える。
手袋を持って来なかったので、軍手を買う。

途中、ガラガラの東急車輛が走っているのを見る。
復旧したのか。
でも、情報を得る術はない。ウエブもつながらないからだ。


駅を出てから4キロ足らず、やっと目の前に多摩川の橋が見える。

後方からも、「やったー、多摩川だ」と歓声が上がる。

神奈川県民にとって、多摩川を越えるのは大きいことである。
小学生時分から多摩川を越えて通っていた身には
一つの難所として揺るがない。

しかし、時間はちょうど午前0時、
ここからとても鶴見を越えて横浜まで行けそうもなかった。
まわりに人がいればなんとか歩けるけど、だれもいない夜道は気力をそぐ。

おりしも夫から川崎の会社の某施設にいると、2時間前に送信されたメールが入る。
そこが臨時の避難所になっているらしい。

子どもは一晩一人でかわいそうだが、そこに寄せてもらうよりほかはない。


川沿いの施設は知っていたが、入るのは初めてだった。

中に入れてもらうと、みな毛布にくるまって、イスにすわったまま仮眠を取っている。


歩いた時間はほぼ10時間、本駒込から直線距離にして25キロだが
その前に歩いていた東十条からの距離や、横道に逸れた分を入れると・・不明。

よりによってこんな日、なにが悲しゅうて東十条まで行ったのか(爆)。
初めての場所、あと2駅乗れば埼玉である。

それだけ歩くと、肩も凝るということがわかった(笑)。


これだけ歩こうと思えたのは、ひとえに自分の蓄えた
脂肪への自信でございます(笑)。

緊急時、役に立つのは脂肪(爆)。
ダテに貯めこんだわけではなかった。(!?)

でも、食べられる時に食べておこうとするのは
きっと長い長い自分のサバイバルの歴史から編み出された
智恵なのだという気がする。


子どもに連絡し水分を取り
ちょっとヨガの呼吸をして、しばしウトウト。

その間、何度か余震があった。


朝7時に電車が動くということだったが、混雑を見計らって9時に施設を出、
11時に家に着く。

子どもにも、大きい揺れと一人の夜は
かなりのストレスだったようだ。

でも、運良く学校が休みだったし
もし学校だったら、海辺だから1.6mの津波が来ていた。

みんな無事でよかった。

御殿山の分岐で間違えたのは痛恨だったが
あとで考えると都営線にも乗れたし
旧東海道を行くと鈴ガ森の刑場跡を通らなければならないし
行きつく先が堀ノ内のソープ街(汗)。

むしろ、間違えてラッキーだったのかも・・

いやいや、ラッキーなら都内にいないし
ましてやどうして東十条!?

昼間いっしょにいた友人は
午前2時まで千葉の自宅まで歩き続けたそうである。


ともかく、これで脂肪はずいぶん減ったと思いきや
「食べられる時に食べておく」
という智恵に深く信頼を寄せた私は迷わず実行し
補ってあまりある脂肪をまた蓄えたそうな・・

めでたし、めでたし・・??(爆)

(物資不足ですね。被災地の方々を思えば申し訳ない限りですが
今回の歩きを支えた、私の脂肪を形成したものの写真です。
当分はおあずけですね・・)