カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

フランクル『夜と霧』

さて、ちょっと電波な話かもしれないけど・・

私は30年来苦しんだ慢性の胃痛と頭痛を念力??で治した(笑)。


そう言ったら友人に
「うそくせー!!」
と笑われた。

まあ、確かにありえん話かもだけど
自分的には実際にあった。

他の人の考える現実と自分の現実は結構違っていて
私が訴える症状などもよく医者からは
「そういったことはあり得ることではない。」
と言われます。

また、理系の人からも
私の言うことはハナで笑われます。

彼らにとって、私はバーチャルな存在なのです(?)。

だから、自分のとっての現実は
自分の中においてだけ真実と思うことにしています。

逆に、「自分国憲法」ってことにして、
もう、自国内の真実のみ追究すればいいかと思うようになりました。

てなわけで、それが他とどう違おうといいのです。

日本国憲法では違法でも、自国内ではみなOK。

そして世間的な戦犯と自国内の戦犯は違うので、
勝手に「自分的A級戦犯」を設定しています(某電力会社社長とか・笑)。

単なるアブナイ人かもだけど、もうそれでいいのです(笑)。

さて、四半世紀にわたって気になっていた本、
 
『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著 霜山徳爾訳 みすず書房

を、やっと読みました。

副題は、「ドイツ強制収容所の体験記録」。

ホロコーストに関してはダッハウ強制収容所内の資料や、
映画、その他モニュメント等から大まかには知っていたが
実は「アンネの日記」以外、収容所経験者の著作を読むのは初めてだった。

著者はユングフロイトから直接学んだ精神科医なので
経験はあからさまに感情的でなく、客観的、そして学究的に語られているが、
堅苦しいレポートではないので、読み物として普通に読める。

絶望的な情況も
一貫して心理学的視点で考察するように描き出されているが
そのためにかえってユーモアを感じる。

作者の、人間に対する深い洞察と強い信頼が
香り高い気品と詩情を添えるが、それらは叙情や熱狂に傾くことはない。

だからこれ以上ないような凄惨な場面なのに
救われた気がするのだ。


この話で、いくつか謎が解けた。

一つ目は・・
美大にいたころ、当時の友人が、いつも同じモデルの絵を描いていた。

いろいろな服装をし、様子も変えていたが、顔はすべて同一人物のものだった。

彼女はそのモデルについて、多くを語らなかった。
しかしそのモデルを描く、確かな理由があることを、彼女は私に折に触れ話した。

そのモデルは実際に生きていた。

しかし、また、幻でもあった。


この文中に、筆者が極限の状況の中、妻の幻を見、話しかける場面が出てくるのだが
その場面で、私は彼女の描いているものの真実をやっと悟った。

それだけ、彼女は極限状況にいたということなのである。

そして極限状況の中でなお、いや、だからこそ、人の精神は自由と美に向かって開く。


二つ目。
私は生きる目的を見失っていた。

アウシュビッツでは、未来への希望を失うことが、死に直結してゆく。

私たちの日常でも、夢や希望といったものが生を支えているが、
では未来がなければ、毎日を生きる意味がなくなるのか。

そういう状況になった時、未来でなく今を考えざるを得ない。

では今この苦しみだらけの生に意味があるのか、と問うことになる。

そして筆者は医者として同じ室内の仲間に求められ、生の意義を部屋で語る。


苦しみとは、その経験自体に意味があると。

苦しみとは、その時だけに許された一回きりの経験の機会であると。

その苦しみを味わうことに、その時間の意味があるのである。

人は人生に何の意味があるのかと問うが、そうではなく
実は逆に人間が人生から常に意味を問われているのだと、著者は表現する。

そしてその経験を確かに生きれば、その時間は終わる。
それは二度とやってくることのない時間である。

だから、私はどのような状況であろうと、生きる意味があると思えたのだ。

先の、「うそくせー」と言った友人は、中学以来の友人である。
彼女は目から鼻に抜けるような優秀な人物である。

彼女ともう一人、やはり同様に信じられないくらい優秀な友人と
3人でよく遊びに行っていた。

その二人は、さして努力している様子もなく、普段はヘラヘラ遊んでいる。
私が必死で努力しても、足元にも及ばなかった。

そういう二人を見ていると、自分が努力するのがバカバカしくなってくる。

自分などが努力したところで、さして有用なことができるわけでもない。
そうした人々に任せておけばよいのだ。

そう思うようになってしまった。

嫉妬とは、たぶん追いつける範囲にいる人がするもののような気がするので
妬みすらもなかったように思う。

本当は、どんな位置にいようと、各ポジションの人が努力することは意義のあることなのだろうが、それすらも意味がないように思ってしまった。

でも、努力はともかく、自分の位置でなければ感じられないことを感じればいいのだ。
その一回切りの経験を、しっかりすればよい。

人との比較とか、目的とかに、あまり意味はないのだ。


さらに筆者が、ある「飢餓浮腫(ビタミン不足による脚気的なものと思われる)」が治ってしまった友人に、どうしてそれが治ったのかと尋ねるくだりがある。
友人は答える。
 
「私が、その苦しみを泣き抜いたからです。」

筆者の言うとおり、その一回きりの経験を、芯から生き切ったために起きた現象だ。

普通に考えれば、飢餓自体は変わらずあるから、つまり浮腫を引き起こした原因は存在するから、飢餓がある限りは浮腫みも出つづける。

しかしその人に、もう浮腫は現れなくなったのである。

原因があるからといって、必ず結果があるとは限らないわけだ。

これを読んだ時、私の胃痛と頭痛が治ったのも同じ理由と思われた。

だからあり得ることなのである。
まったく非科学的ということもない(超科学的ではあるけれど)。

先日久しぶりに会った友人に(先の友人とは別の人)、
同様に胃痛と頭痛が消えた話をしたところ

「あ、それはもしかして、『自律訓練法』の延長?
10年も続けていれば治るかもしれないよね。」

と言っていたが、なるほどと思った。

確かにそういう理由もあるだろう。

自律訓練法では、「自分の手や足が暖かい」などと体の様子を感じ、
同時に暗示をかけてコントロールしていく。

胃や頭は自律神経でコントロールされていて随意に動かせないが
長い時間訓練を続けていれば、調整することは可能かもしれない。

実際は、私は、その痛みを芯から感じた、それだけだったのだが。

限りない可能性を秘めた存在である人間。

そのことを示し、私の疑問を氷解させ、確信を届けてくれた。


見るのもためらわれるような忌まわしい資料写真の数々も
最終的には
人間の尊厳を謳い上げる一つの貴重なパートと思わせてしまう。

この本を愛蔵書の一つとしたい。