カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

『4つのいのち』と『キンスキー 我が最愛の敵』

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

この夏に見た、映画何本か。


『4つのいのち』(2010、イタリア・ドイツ・スイス 88分)
イタリアの田舎街舞台に描かれる、
ヤギを飼う老人→ヤギ→大木→木炭→老人
のサイクル。自然はそのようにつながってまわっているという
日本人にとっては至極当たり前なことが題材。

セリフは特になく、動物もほとんど撮り直しナシで奇跡的にシナリオを裏切らなかったらしい。
静かで当たり前過ぎるので眠くなる。

しかしこれが宣伝によると
「カンヌが熱狂した話題のオーガニックムービー」
「ドキュメンタリーとフィクションの垣根を越えた、驚くべき生命のドラマの誕生だ。」
となっているから、欧米にはあまり馴染みのない概念だったのかもしれない。

人が自然の中で生き、それが壮大なサイクルの一部となっている
というのは、東洋人にとっては呼吸の如く当たり前の意識ではないだろうか。
諸行無常

「わび・さび」
に通じる価値観であり、日本人なら根底にどこか持っている感覚だ。


たびたびの地震や台風で、無常と常に隣り合わせの日本。
だから逆にローマのコロッセオのように、「ずっと常にそこにあるもの」を
見て生きている人々の意識とは、どのようなものかと思うのだ。

そういう人々の、新しい自然観ということなのだろうか。

西洋人は、自然に敵対して生きて来た。
四季の恵みを受け、その中で生きて来た日本人とは
自然に対する意識が違う。

その次に見た
『キンスキー わが最愛の敵』(1998/1999 アメリカ 95分)
でも出ていたが、
俳優クラウス・キンスキーは大自然の中のロケでも、決して自然に親しもうとしなかったという。

ヴェルナー・ヘルツォークはドイツ出身の映画監督で、
クラウス・キンスキー主役に映画を5本撮った。

彼らは10代のころたまたま同じ下宿で暮らしていたが、
キンスキーの破天荒さは度肝を抜くようなものだったらしい。
怒り、叫び、とても飼いならすことのできないような荒々しさだったが
映画への執念はすさまじく、極端に繊細だったという。

容貌といいキレっぷりといい、見ていると父を思い出した。
私の父親は日本人よりむしろ西洋人に似ていることが多く、
例としてはシュワルツネッガー。

娘のナスターシャ・キンスキーは早い頃に父親とは別れたようだが
さぞ大変だったと思う。
よくこんな男と結婚した女がいたと感心するが
クラウディア・カルデナーレ他の女優の回想を聞くと、女には当たりがよかったらしい。

まあ、生活すれば、それもね。

で、ヘルツォークの映画は、厳しい自然の中で撮られることが多かったのだが、
そこでヘルツォークや他の俳優の語るところによると、
「彼はほとんど自然の中に入っていかず、あくまで敵対していた。
たまに親しむフリをしても、自然の一部をかいつまんで自分の一部とするように接していた」
ということだった。

自然に対する強い恐れがあり、
それはインディオの人々の自然に対するスタンスとはまったく違っていた
ということだ。

私も自然主義的のようでありながら、実は土や水が怖いし
そして森や木立ちの中に入るのが苦手だ。庭いじりもできない。
木は好きだが、あくまで遠巻きに。
たとえ四季を愛でたとしても
坪庭や庭園など、人の手によって強力に制御され、制限された自然だけが好きなのだ。

あくまで都会の人間であり、自然とは、ただ脅威だ。

それでも、『四つのいのち』については、目新しさを感じないのだ。
それがこの映画のすごさなのかもしれないが、よくわからない。


3つめの写真は、ヘルツォークを見た日に食べた、トルコシチュー。
近くにいいトルコ料理の店があるのだ。これで850円。渋谷なのに安い。