カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

目に見えない価値に対する一つの目覚め(玄侑宗久氏より)

イメージ 1

子どもの学校はカトリックなのですが、
そこで先日、『東日本大震災 追悼の集い』として
仏教の僧侶とカトリックの司祭による合同の追悼会がありました。

仏教とキリスト教のコラボ、宗教の垣根を越えたイベントです。

第一部は福島出身で在住の臨済宗僧侶で、芥川賞作家である
玄侑宗久氏の講演会でした。


最初に氏は、福島が「フクシマ」とカタカナ表記になってしまったことに
深く懸念されていると触れられました。

そしてあの日以来、人々が見えないものに意識を向け始めたと語られました。

宗教家の仕事とは、まさに、「見えないものを見る」
そのことに尽きる気がします。

氏はその立場に徹底した方だと思えました。

しかし、原発放射能、医療など科学的な分野にも明るい方です。

医者は、インフォームドコンセントとして、患者に病状を告げる際
以後たどるかもしれない予想のうち、最悪の場合を知らせます。

たとえば、余命が最長3年、最短で2年とすれば、2年として患者に告げます。

しかし、それは「呪い」だと氏は言います。

そして「3年」と告げるのが、「祈り」だと言うのです。

人はメンタルな存在だからです。
そのようなものだと思えば、その通りになります。

しかし責任回避のために、医者はそのように患者に告げるのです。

それは、何のための医療なのでしょう。


人のための科学であり、論理であるはずが
論理のための、科学のための、医療のための人になっている。

そんな現場を、私はたくさん見てきましたし、現在も私はそのようにあしらわれています。

たとえばキシロカインという麻酔を使うと、私は動悸が激しくなり、呼吸も苦しくなります。
しかし医者に言っても、そんなことはないと切り捨てられてしまいます。


論理的・医学的にはありえないから、実際の現象は、ないものとして処理されてしまいます。

事実よりも、論理が勝るのです。

理系の人と話すと、そうしたことが往々にしてあります。

「コーヒーで眠くなることはありえない」
「食中りには○○を飲めば必ず治る」
「感情的な人間は、論理的人間よりも下」
「心霊現象は非科学的なので起こり得ない」
等々・・彼らはすべての現象を論理に押し込めようとしています。

そしてすべては科学的に、論理的に説明ができると、信じている人もいます。

それが本当なら、治せない病気はすでにないはずです。


しかし論理と言うのは多分に個性的であり、どのようにも運べるのです。

彼らの謳う論理に、多分に感情がカゲを落としているのを、目の当たりにすることがよくあります。

彼らは理論武装をしているのです。

日頃の鬱憤が溜まっているので(笑)つい脱線してしまいましたが
論理と科学ですべて片がつけられると思うのは、奢りです。


人類は、原子力さえ意のままにできないのです。

論理は現象の一部であり、説明できないことの方がはるかに多いのです。

しかし彼らに、「説明できないこと」を知覚する能力はありません。

なので、彼らを説得して気づかせることはできません。


しかし僧侶である氏には、その部分が見えています。

だから救いがもたらせるのです。


その後、浄土宗僧侶による声明と
カトリック司祭によるミサが執り行われました。


子どもの学校は、以前私のいた職場のすぐ近くにありますが、
私がその職場にいたころ、声明に興味を持つようになり、いつか聞きたいと思っていました。

その地でこうして声明を聞けたのは、何かの縁かもしれません。
それもカトリックの場所で。
大震災という理由でなければ、もっとよかったのですが。


今回は、キリスト教と仏教が手を取り合った、ナイスなイベントでした。
こうして、いろいろな垣根が越えてゆければいいと思います。

いつか、イスラムキリスト教が手を取り合う日も、来ればいいと思います。

帰りは、そこに勤めていた当時には行ったことがなかったトンカツ屋さんで
食事しました。
私はトンカツが苦手なので、エビフライその他で。

他の呑み屋は新入生を歓迎する学生であふれ返っていましたが、
ここは大人しかいない、静かな空間でした。