カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

新月の闇

新月の日、
自分の中のもっとも暗い部分が出てきた。

強い感情を伴う病巣に5分、意識を向ける。を二回。


それは
私が先祖から受けた悪い因縁を
子どもに渡すまいと踏ん張った挙句

生じた病巣だった。

自分だけで抱えようとした
大きな荷物だった。

ただ忌み嫌っていたけれど


だから自分は罪人で
許されざる悪人と思っていたけれど


そのベースには愛があった



泥ばかりだったけど
少し綺麗なものがあった


闇夜だったからこそ

真っ暗な部分


そして
明るい部分が見えた。


この夜はカンツォーネのライブに行った。

歌手の方は
ミラノにお住まいだったそうだが

ナポリの曲に真の力量が溢れていた気がした。


歌詞をご自身で和訳されて歌われているので
意味がよく伝わり

それだけにイタリア人のメンタリティとは違う自分を感じるが


ライブ後の歓談時間

新月の話になり

新月カンツォーネがあるという。


そこでは光に映し出される風景が歌われるのだが

そしてそれをよく見よと歌われるが


見えないのに矛盾していると。


しかし彼らの歌うところの新月
日本でいうところの二日目の月


つまり新月の翌日で

全くの闇夜ではない。


だから幽けし光の中に浮ぶ風景は
仄かで味わいがあるのだが



日本では新月を1日目とする。


そこに、ないものをすでにあるとする
自然観を感じる。


イタリアの新月はないものとされる。


ないから感じようがない。

だから日本でいうところの新月の翌日が新月なのだという。



日本では、ないところにあるを見る。



東洋とは、そういう場所なのだ。



しかし西洋には、ないものはない。



だからゼロの発見が大きかった、ということなのだろう。


最初、中学生頃だったか


「ゼロの発見は大きかった」
と聞かされて


「なんで?」
と思った。



ゼロがあるなんて当たり前

だからその感覚に違和感があったのだ


そしてゼロを発見したのは確か、インド


東洋と西洋の境目、もしくは両方あるところだからそれが可能だった場所


東洋では空即是色、色即是空なのである。



冬の枯れ切った風景の中に

膨らみ始める蕾を見て歓ぶのが我々日本人



そして先日

ガイアシンフォニー第八番」

を見た。



そこで感じたのは


日本の神道のでき方が

西洋の宗教といかに違うか



人の間から生まれたキリスト教に対し




深い自然の中から生まれた神道

無限の命の中から

むくむくともたげるように
押し上げられるように出てきた宗教



世界観が全く違う。




「第一番」ができたのが1992年

ずっと気になっていたが観る機会がなかった


でも昨年ある縁により「第七番」を初めて観る。


そこで、神道に対する自分の見方が変わる。



自分は罪、穢れ人だから

決してあの中に入ることが許されないと思っていた。



でも何か、すべてを包むようなものに見えた。



私のベースはどこかキリスト教ユダヤ教


人の中で裁かれ叩かれ
悔い改めさせられる



でも本来は
大きな命に生かされ、
私もその命をつなぐ、その一部


それらがダイナミックに躍動し
命の歌を歌っている


そんな感覚


暗くても見えなくても
いっぱいあるんです

目に見えるものがすべてじゃない


そして醜くても汚くても悪くても
それだけじゃない

愛もあるんです

それは分けようもなく
一緒にあるんです。


もともとは一つのものだから
善も悪もない


同じものの、表と裏、両面だから。

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