カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

五体投地と行

先月、都内のあるヨガ教室(仮に「T研究所」とします)の門を叩いた。
 
そして今月、そこでの瞑想教室に参加した。
 
いろいろな理由により新しい師を探す必要を感じていたが
それはヨグマタ相川圭子さんの本を読んで、独学でヨガや瞑想をすることの危険を知ったからだった。
 
毎日独りよがりでそれらをしていると、どうしても偏りが出る。
 
T研究所は、たまたま、というかオーラソーマの友人が縁を結んでくれて知った。もっと遡れば、以前私がカッピングを習っていた会社にもつながっていた。
 
 
そこで昨日、「五体投地」なるものを初めて体験したのだ。
 
やり方はいろいろあるようで、チベットの人がラサに向かう際の方法もやってみたが、タイヘンである。
 
一回一回五体投地するたびに一歩進む。
 
一度NHKだかで見たことがあったが、10m進むのだって大変である。
 
で、T研究所式の五体投地で、これは感謝を捧げながら行う。
そして懺悔のような気持ちを持つことが大切ということだ。
 
太陽に感謝しながら3回。
地球、その恵みを思い、生かされていることへ感謝しながら3回。
お父さんに育ててくれたことを感謝しながら3回。
お母さんに育ててくれたことを感謝しながら3回。
 
 
地に額をつけるのと、体を起こした時では感覚が違う。意識に差が出る。
これは実際にやってみないとわからない。
 
地に頭をつけると、自分が太陽や宇宙、地球など様々の存在の下に位置することが体感的にわかる。へりくだる心である。

自分が上、と考えていると、それらのものに感謝しようという気にならないし、それ以上精進して行こうという気持ちになりにくい。

T
先生によると、額を地につけると、自然にそうした感覚が入ってくる、そのようになっている、ということだった。
「地に足をつける」ということばがあるが、それと同じように「地に額をつける」ことには意味がある。

 
地のエネルギーが直接、眉間を通して入ってくるのだろう。
 
そして実際に感謝する気持ちが最初はなくても、回数を重ねるうちにやがて本当に感謝する気持ちになってくるそうだ。
 
 
家で瞑想後に宇宙や太陽、大地や父母に感謝を捧げるということをしていたが、毎日だとルーティンワーク化してしまって、少し無意識になっていた。
しかし体を動かして感謝を行としてやってみると、何か別のものが生まれた気がする。
 
あの、イスラム教徒の人々がどういう気持ちでメッカの方を向き礼拝を捧げているのか、どこかわかる気がする。
 
そして先日、ある方がブログで無宗教の日本人が持っている傲慢さについて触れていたが、それが感覚としてわかった気がした。
 
 
やはり人は絶対的に神や宇宙、太陽や地球より下なのである。
 
 
それらに育まれてこその生命なのである。
 
 
それが、教えられてただ知るのと、行を通して知るのは違う。
 
彼らは体感的に神という偉大な存在の中で生かされていることを知っている。
 
だからそれだけで幸せを感じられるのだ。
 
 そう考えると行は大切だ。
そのために行がある。
 
またその行をすることと、その感覚を生活自体に生かすことは違う。
(ただその意識が浸透していると、普段から生活全般がその影響を受けるとは思う)
 
T研究所では「生活と社会に生きたヨガ」を目指し、実生活に生かしてこそのヨガを提唱しているらしい。
 
バックボーンとなる思想、それが私のしてきたヨガには抜けていた。
これこそ最も大事なことのように思える。
 
このバックボーンは仏道的なもので、それは私の実際の生活の中に深く入り込んでいたと思う。
 

それらがここで結びつけられたと感じた。


少し話が逸れるが、私の母は教会に通っていたことがあって、かなりキリスト教的な考え方をする人だったが、父は禅宗大好き人間で禅宗の教義を最高のものとして私に教えた。
しかし哲学全般が好きだった父のバックボーンはどこかキリスト教的で、常々「己を虚しくして他のために尽くせ」と言い、それを強いた。

 
弟はキリスト教の幼稚園に通っていて、月一度は家族で1日園で過ごし、イエス様のお話を聞いたりお祈りを捧げたりするのが慣しだった。
 
というわけで私の頭の中には、パソコンでOSに相当する部分に「キリスト教的な神の存在」が入り
 
その上に仏教的処世術がアプリケーションソフトのように入っていた。(なんか仏教って宗教というより処世術って感じなんですよね、私的には。膨大な処世術の宝庫)
 
神道は女性を穢れあるものとして遠ざけているような感じがしていたので蚊帳の外感があって馴染めず、祭りと正月以外は近づかなかった。
 
 
で、話を元に戻すが
 
五体投地で太陽と地球と両親に感謝を捧げた後、
「次は自分にとって一番大切な人に感謝を捧げましょう。

それはお子さんかもしれません。」
と先生が言われた。

最も大切な人は両親で、それについては毎日頭がウニになるほど考えてきた。
 
そして他のご先祖様や、思いつく限りのお世話になった人にも毎日感謝を捧げているし、子どもにも感謝しているから、ここであらためてというと誰がいいだろう・・と考え、あんまり考えていても行が進まないので急かされるように
 
なんと、(思い切って)「夫」にしてみた!(笑)
 
すると、なんか、自分はすでにとても感謝していたようなのである。(爆)
 
行として行ってみると、常日頃叩かれながらも、私は受けている恩に対しては感謝していたらしい。それも深く。
 
 
それがあらためてわかってなんだかすごくビックリした。
 
さらに、そこまで深く大きい自分の愛情みたいなものに、前回「自分が素晴らしい人間であること」に引き続き気づいた次第である。
 
許していただけでなく、感謝していた。
 
そこに深く感動してしまっていた。
 
 
我ながら、というよりも、ほとんど他人みたいな感じである。
 
感動して、涙まで出てきた。
 
が、ワーク中だったので取りあえずこらえた。
 
でもここで得た自分への信頼感のおかげで、授業は自分をより開いて受けることができたと思う。
 
この日「チベットマントラ」を皆で唱えながら行う瞑想も経験したが
声が響き合うように皆でする瞑想も意義があることだと感じた。
 
今日は川崎大師に行ってきたが、7、8人の僧侶による祈祷で響き合う陀羅尼の中に、場を変える特別な力を感じたからだ。
 
その場にいるすべての人に、良い方向に作用する力だった。
 
そのせいか、前回のヨガの時間もそうだったが、爽快感があった。体の歪みを取ったりしたせいでもあるだろうが。
 
 
なお仏教の内、密教などには呪術的効果もあるため、日本人の宗教感は「ご利益主義」という印象を持たれる方が多いのかもしれないが、「神頼み」するのはどこか自分という存在に限界を感じているということだから、宗教への入り方としては必ずしも間違いではないと思う。
 
私が通っていたキリスト教プロテスタントの聖書教室でも「人生につまずいたとき、初めて人生への入り口に立ったということなのである」と聞き、いたく感動し、私は長いこと(長いこと、それはもう長いこと)失っていたキリスト教への信頼を回復した。そのつまずきからその先生は信仰生活に入られたということだった。
 
 
今回瞑想の授業の終わりに体験のシェアを行ったが、隣で組んでワークしていた人も五体投地で感謝したことに感動したと話していた。やはり旦那さんに感謝したそうだ。
 
 
いままで私は毎日同じように行う読経などの行を、どこか軽く見ていた部分があった。それは毎日行うことでルーティンワーク化して形骸化する気がしていたからだ。
 
五体投地も毎日すれば慣れていく部分もあるとは思うが、実際に行う行というのはそれなりに意味があると感じた。
 
すべての宗教は「懺悔」と「祈り」と「奉仕」、そして「浄化」は必須かと思う。これらを毎日行うことが行で、それが宗教を実生活に生かす、というか、宗教とともに生きるというか、神と共に生き、自分を高めていくための信仰の生活を送るということなのだと思う。
 
 そう考えると、それなりに信仰の生活を小学生時代から毎日行ってはいたと思う。
 
ただ師について習い、新たな視点でそれを行っていくことは重要と感じた。常に見直し、形骸化しないことが重要だ。
 
正直、いままで師につくことを恐れていた。
もちろんいい部分もあるが、かなりマイナスな部分も多かった。
 
でもT先生は素晴らしい師であると感じたので、しばらくついて行こうと思う。
 
 
帰り道、お茶を飲んでほっとしていると、五体投地の時の感動が蘇ってきた。
 
そこで感じた大きく暖かい自分に、圧倒されていた。
もはや涙を止めることができなかった。