カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

「かわいそう」の先に

先日、ある方のエネルギーワークを受けました。

 

スピリットに入っている、人間以前の時代に蓄えたサバイバルのための意識を解放するワークです。

 

 

その後、ヨガのクラスに出ました。

 

そうしたら、いつもの照明のほかに、ミラーボールのような照明が作動しました。

 

そのクラスは貸しスタジオで行われているのですが、ダンスにも使われるのでミラーボールも備わっていたようです。

 

今までは存在に気づいていませんでした。

先生が照明盤を操作したところ、急に作動して存在に気づきました。

 

先生はなぜかそれを作動させたままクラスを始めました。

 

ヨガにミラーボールもないだろうと思っておかしくてたまらなかったのですが、

なんとなくムーディでポジティブな雰囲気を感じました。

 

犬のポーズを取っていた時だったか、下から上を覗き込むような形で室内を見た時、壁にたくさんの光のスポットが当たっていました。

 

それを見て急に思ったのです。

 

「かわいそうじゃないんだ。その先があるんだ。」

 

 

私が何かする時の動機の多くは、しばしば「かわいそうだから」でした。

 

この1週間ほど、その感覚についてもう少し洗い出しをしていました。

どんな人に対して、どのようなシチュエーションで、どんなことについて、そういったことを感じるのかなどなど。

 

ほとんどの場合、「子供たちに対して」「痩せている子供に対して」「髪の毛のない、あるいは少ない人に対して」でした。

 

幼稚園のころからそうした感覚を持っていました。

 

「なぜそう感じるのか」を考えると、それは

「人間がまず食べなければ生きて行けない存在だから」

「子供が、また大人でも誰かの庇護や援助を受けないことにはまず生きていかれない存在だから」

だと思いました。

 

それで、「その感覚がいつ、どのような理由で起きたか」を考えると、

もちろん今世だけでなく前世にも理由はあったと思いますが、

幼稚園以前に受けた厳しすぎる躾がその感覚を生んだ(または思い出させた)のであるように思います。

 

前世のどこかで極貧状態を経験したことにも関連していると思います。

 

そういったことをヨガの時間にシェアしたところ、先生にもほぼ同様の感覚があるということでした。

 

「人間とは、まず食べていかなければならないという、切ない存在」という感覚です。

 

その先生は私と同年代で、もう1人の参加者は30代くらいの若い方ですが、人を見るベースに「かわいそう」という感覚がまったくないと言われました。

 

「人は自分の意思を実現していく存在」といったような、ポジティブな意識しかないと、その人は言っていました。

 

その違いは大変興味深いことだと思いましたが、先生によると、

「それは私たち世代の問題ではなく、もともとは親世代が戦中派で、サバイバルのために持っていた感覚だ」

「その問題を私たち世代がそっくり真に受けたり引き継いだりしているので、自分たちの問題と思っている」

といわれていたので、それもあるかなと思いました。

 

世代間の集合意識的な感覚でもあり、親とは境界線も甘いためにそのような感覚になるのでもある気がします。

私の場合は戦中派ではなくてもDV家庭のためサバイバルがあったからでもあると思います。

 

さらに先生にも、「髪の少ない人、ない人」をかわいそうとする感覚が強くあるそうです。「髪の少ない人」に対する奇妙な敏感さについて、かなり熱く語ってもらいました。

 

それはともかくとしても、「かわいそう」の先に新たなステージがあり、

人が「かわいそう」には留まっていないことを確信できたのは、かなり衝撃的でした。

 

 

さらに後日、エネルギーワークの調整を受けましたが

「かわいそうな人って誰だった?」と

まったく意識が変わっていたのです。

 

私の周りから、かわいそうな人はいなくなっていました。

 

父も母も、子供も、難民や戦災孤児、飢餓状態にある子供ですら、かわいそうでなくなっていました。

 

それは一過性の状態で、まもなく移行できることを信じられるようになっていたのです。

 

そして、「かわいそうな人」を生んだ権力や、それらによる抑圧を憎む気持ちも

激減していたのです。

 

大量の怒りがリリースされました。

 

そのせいか、北京五輪でフィギュアのエキシビションを見ていた際に

「人間は素晴らしい」

という意識が湧き上がってきました。

 

初めての感覚でした。

 

特に羽生結弦選手のエキシビションを見ていて、

失敗や落胆、様々な感情や状況の動きがあっても、人というのはなんという素晴らしい存在なのか、感銘をうけました。

 

金メダルではなく、敢えて自分の目指した4回転半を達成するという

形ではなく本当の望みに達しようとする意識に

多くの人が衝撃を受けたのではないでしょうか。

 

保守に走らずさらなる革新を。

 

頭で理解していても、なかなか実行できないことです。

 

私も、かなり思い当たります。

 

8年前にソチ五輪でも、浅田真央選手の演技を見ている最中、

自分が実は両親に愛されていたことが腑に落ちました。

 

そういった新しい局面をもたらすようなエネルギーの流れが

彼らのパフォーマンスにあったということです。

 

どのような状況であっても

人は光を目指して努力する存在であるように思えます。

 

努力が実っても実らなくても関係ありません。

 

ただその意思があり、存在があることが尊いと思うのです。

 

生まれてきたことそのものが意思です。

 

人は一人残らず、尊く素晴らしいのです。